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聖衆寺について

縁起

鎌倉幕府三代将軍、源実朝の時代に、北伊勢地方の鎮護のため、京都の現在の真言宗泉涌寺派総本山、泉涌寺(せんにゅうじ)三代目長老の定舜(じょうしゅん)が建立。享禄年間(1528-1532)頃には、四十三坊を有した大寺だったと伝わっています。

永禄十一年(1568)に兵火により焼失し、一時は廃寺となりましたが、寛文年間(1661-1673)に、万古焼以前の桑名焼き物の祖と言われる信行がこの地に隠遁し再興。天和二年(1682)に四尺八寸(実物は約162cm)の阿弥陀如来像を瓦と同じ材料で制作。窯を用いず野焼きで焼かれたと言われています。

 

信行亡きあと、信行を支援していた城主が高田に転封後、寺地は荒廃し小堂のみが残ったと伝わっています。

 

その後、小堂のみとなったこの地の信仰は続き、嘉永三年(1850)には現在の本堂が建立されました。

 

仏像の材料が土であることから、土仏さんの名で地元の方から親しみをこめて呼ばれています。

阿弥陀如来 土仏

境内案内

土佛山 聖衆寺 本堂
聖衆寺 仏像

本堂

大正14年建立

聖衆寺の現本堂は、大正期に東京で商売を行う前に、穴不動に七日七晩籠って商売繁盛を祈願した加藤伊之助氏が、大成したお礼として寄進されました。

その際、旧本堂(現阿弥陀堂)が今の場所に移築されています。

聖衆寺 光背 化仏

本尊 阿弥陀如来坐像

昭和58年開眼

ご本尊である阿弥陀如来像は、旧本尊の痛みが激しく、修復に難があることから新たな本尊を造ることを発心し、昭和58年3月27日に開眼されました。木造の丈六仏(一丈六尺:約4.85m【坐像の場合:約2.43m】)です。

永代供養でお祀りする観音像は、本尊を彫った仏師のお弟子さんが本尊制作時に出た木っ端から千体彫られたものです。

聖衆寺 新本尊
永代供養佛②.jpg

鯖大師

千枚通を運んだ鯖大師

聖衆寺の鯖大師には不思議な伝承があります。

現いなべ市阿下喜に住む信仰深い方が、親の長患いを気に病んでいました。ある日、家を出ると目の前に少年が現れ、これを毎日飲むと病気が治ると言って千枚通し(飲むお札)を渡しました。

少年にどこから来たのかを訪ねると、土仏から来たと答えて去って行きました。

不思議に思いながら親に千枚通しを飲ませるとみるみる病気は完治しました。

お礼参りに聖衆寺に来た方が鯖大師を見ると、千枚通しを渡した少年そっくりだったそうです。

鯖大姉 聖衆寺
地蔵菩薩 聖衆寺
永代供養佛②.jpg

地蔵菩薩

あまねく全ての人救う菩薩

お地蔵さまで親しまれている菩薩で、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救うと言われています。

過去には、成人前に亡くなることは珍しくありませんでしたが、子供が親より先に亡くなることは大罪とされ、賽の河原で石積みをさせられると伝わっておりました。その為、亡くなった我が子がどこの世界にいても救われるよう多くの人が、お地蔵様におすがりしました。

傘地蔵など非常に親しまれているほとけさまです。

阿弥陀堂 聖衆寺.JPG
聖衆寺 灯ろうと紅葉.jpg

阿弥陀堂

如来像が描かれた瓦

阿弥陀堂は、嘉永三年(1850)に再建されたと伝わっています。

再建時には、当時の本山であった泉涌寺から宝物が運ばれ御開帳が行われ、大変賑わったそうです。

後世に修復された瓦以外は、再建された当時の瓦に阿弥陀如来像が描かれたものとなっています。

大正時代に現本堂が建立される前は、阿弥陀堂が本堂として、現本堂の場所にありました。

阿弥陀堂の裏に洞穴があり、願掛け不動がお祀りされています。

聖衆寺 化仏.jpg

阿弥陀如来坐像

瓦職人が造った土佛

聖衆寺が【土仏さん】と呼ばれる所以の焼き物のほとけさま。

元瓦師で桑名の焼き物の祖といわれる信行(しんぎょう)が僧となり、桑名藩主の松平定重に寺運再興を言上して寺院を再建した際に建立した阿弥陀如来像。

頭部のみが発掘されたものに信行が身体を制作し繋げたとされています。

像高162cmで、あまりに大きいために、窯に入らず野焼きで焼かれたと伝わっています。

不動明王  聖衆寺
不動窟入口 聖衆寺

不動明王

洞窟内の願掛け穴不動

穴不動として親しまれている願掛け不動。

大正時代に本堂を寄進した加藤伊之助氏が東京で商売を行うにあたり、大成を祈願し、七日七晩籠って拝み、その後東京で成就したことでも知られています。

頭をぶつけるほど低い洞穴を進んだ奥にお不動さんがお祀りされています。

聖衆寺より名古屋市内景観➀.jpg
秋葉堂.JPG
聖衆寺 天狗

秋葉堂

火坊の神と諸神仏

境内奥の小高い場所に建立されている秋葉堂は、江戸末期に犬塚道雲が勧進し明治初期に建立されました。

秋葉三尺房大権現をはじめ、伊勢七福神の恵比須神、天手力雄命、九頭龍大神、地蔵菩薩、聖観世音菩薩、大聖歓喜天などが祀られ、毎朝と毎月17日に護摩祈祷が行われています。

真言宗醍醐派

京都市伏見区の醍醐寺を総本山とする真言宗のひとつ。


弘法大師を宗祖と仰ぎ、理源大師・聖宝を開祖とする。
本派成立の起源は、弘法大師の実弟・真雅僧正の弟子である理源大師・聖宝が874年笠取山に自ら彫った准胝観音と如意輪観音を庵に安置し、醍醐天皇の帰依を受け、勅令によって薬師堂、五大堂などの諸堂を建立しながら醍醐寺を開創したことに始まる。以降、醍醐寺は小野流と呼ばれる法流を中心とした法流本山として、祈りの伝承を現在に受け継いでいる。
傍ら修験道の曩祖・神変大菩薩の霊異秘訣を相承し、永らく途絶えていた大峯山入峰修行を再開して修験道を再興し、山岳修行とともに諸仏教を納めて、修験道と密教法流を確立した。現在でも醍醐寺、真言宗醍醐派の寺院・教会は、聖宝の残した「実修実証~入りて学び出でて行なう」を教えのもととして、真言宗本宗と修験道を学び、実践している。

1879年(明治12)、明治政府による教王護国寺(東寺)を中心とした真言宗一管長制度により、大本山に列した。
その後1900年(明治33)、真言宗醍醐派として独立。
また、修験道の本山としては、江戸時代になってから真言宗系修験道を統括していたが、明治政府による修験寺院の廃止が決定されると、醍醐寺内に恵印部を設けて、全国の修験道行者の受け皿として修験寺院を統制した。
1919年(大正8)、恵印部を廃し、修験寺院を真言宗醍醐派末寺にした。
1941年(昭和16)、古義・新義真言宗は政府の政策によって合同され大真言宗となるが、1946年(昭和21)に真言宗醍醐派として独立して現在に至っている。

(真言宗醍醐派公式サイトより)

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